心だけGAKIのまま

2004年からはてなダイアリーにお世話になっております。元は「永遠の少年から大人への階段」というタイトルで気ままに書いてきましたが、2019年春のはてなダイアリー終了に伴い、「はてなブログ」に移行しました。2018.11.15に移行完了。

引き出し

約3ヶ月ぶりの更新です。

さて、ふと思い出したものに、「引き出し」というお題が思いつきました。
僕が小学校入学の時に、「引き出し」を持ってきなさい。という学校命令がありました。
今はどうなのでしょう?僕が記憶している限り、引き出しは、「木製であり、手作り」でなければ駄目!という通達がありました。しかし、小学校6年間使うわけですから、当然ながら傷んできます。だから6年生くらいになると、プラスティックの引き出しを持ち込むような生徒も増えてきました。

あの当時、プラスティックの引き出しを売っていたことも記憶にあります。だけど、それは駄目でした。

昭和のあの時代、「手製」に妙にこだわりがあった時代。とてもよかった。平成バブルの前であり、人々はあくせくと時の流れを感じながらも、ゆっくりとした暖かい時間が流れていた気がします。
今の平成の時代を否定するような感じになりますが、言葉のとおり、すべてが『成り立っている』。だからこそ、人の手が必要なくなってきたあともいえます。年の瀬もせまった今日、雇用問題が叫ばれています。人々の需要と便利さを追求した結果、人間が必要なくなってきたともいえるのではないでしょうか。便利さと人間の「手」が共存しなくてはならないのです。
機械を製造するのも、人間の手が必要です。メンテナンスも人の手が必要です。だけど、「手」をもてあますようなことはしてはなりません。人は「温かさ・暖かさ」の欲求が枯渇しているんだろうと推測します。

引き出しの中には、教科書、筆箱などを入れます。たまに「不用品」が入ってたりします。だけど、その引き出しの枠は「既成」ではなく、「手」に求められています。手で作るからこそ、親は子供の引き出し作りに大変だったと思うけど、6年間使う引き出しには、6年分以上の愛情があるんじゃないかと思います。それは、日々、仕事や家事そして、子供の世話などで、疲弊した手で作ってくれる。それに大変な意味があると思います。でも、こんなこと小学生の時分には気付くわけないと思います。だけど、大きくなって、色々な人と出会い、そしてたくさんのことを学んだ時に、「気付き」が発生するんだと。

偉ぶった感じだけど、小学校卒業してから20年。あの引き出しはもうないけど、記憶と「事後勉強」は残りました。ただ、今の小学校はどうなのでしょうか?既製品の多い時代に、プラスティックの引き出しなんて当たり前?いやいや、現在の小学校では、引き出しなんて不要さ?なんてことになっていたりして?

6年間いつも一緒にいた引き出し、床に落としたときも丈夫だった引き出し。今となって、とても「会いたい」。。。