平和祈願
昭和20年8月6日 広島に原爆投下。
あれから60年。僕は『戦争を知らない』。
教科書や授業で原爆が投下された、戦争があったんだよ、っと言われてもいまいちピンとこない。それだけ、60年という歳月が流れ、戦争の傷跡があまりにも無くなっているからだろう。
戦争という悲惨さを経験していないから、人の命という生命の尊さが薄れ掛けている。
だから、低年齢化した殺人事件もあったりするのではないか。決して、外れた意見ではない。人が苦しむ姿、焼かれた姿、必死になって愛する人の名前を呼ぶ姿・・・。数え上げたらきりがないが、人の痛み、悲しみのわかる人が少なくなってきているのだと思う。
来年は戦後61年。1年歳月が経過すると、その分、戦争を語り伝える人が消えていく。
その分、『戦争を知らない子供たち』が反比例して増えていく。
この先、また同じ過ちを犯すのではないか?
いくら、平和祈念館という歴史の爪あとを残しても、「戦争はいけない」ということを頭ではわかっていても、その戦争を体験していない分、つらさも、悲惨さも、僕を含め本当の意味で解っていないのではないか?解ろうとしても、体験しないと絶対にわからない部分も多々あると思う。
戦争を知らない大人たち(国家等)が国の実権を握るとき、また同じ過ちを繰り返さないとは限らない。僕は、子供の目線で言う。
『今の僕たちがあるのは、おじいちゃん、おばあちゃん達が涙を流したから、今の僕達があるんだよ』って。
教科書や映画で見るととても非現実的でちっぽけに感じるかもしれない。だけど、実際の体験した場面はとっても、映画のスクリーンじゃ、再現できないほどのスケールと悲しみが渦巻いている。一人の悲しみの涙を流さないような、「平和ボケ」ではないけれど、過去の過ちを頭の片隅に置いて、「平和ボケ」を楽しもうじゃないか!!