少年達の夏休み
最近、電車で新宿方面に向かうことが多い。今日この頃である。さすが、夏休みとなると、ファミリーが多い。どこも普段の平日とは違う雰囲気をかもし出している。
子供の頃の夏休みって、大人になってから、「宝石箱」の中の宝物のような感じがする。
大人になって社会にでると、「夏休み」という言葉はあってもあんまり、夏休みという感じがしないからである。子供の頃のように、絵日記書いたり、扇風機にあたりながら、「アニメフェスタ」を観るわけでもない。遇に、そのような大人もいるが・・・。
大人になって、子供達の笑顔をみていると、あの頃の「心の自分」を思い出す。
夏休みは、なぜか早く終わってしまう。ただ、気持ちの感じ方だろうけど、それだけ、充実している夏休みだということははっきりしている。
宿題にしても、なぜか毎年、同じ過ちを繰り返す。夏休みの5日前からアタフタと宿題だの新学期に向けての準備などでまるで、「師走」のような気分である。
でもね、そういう慌て方も、大人になってから、「いい思い出」として残っているに違いない。
たとえ、夏休み中、勉強ばっかりの人生だったら、そいつが大人になったとき、空虚感にいっぱいになるだろう。あの頃の記憶・・・「塾」「参考書」そんな思い出の人生、僕は嫌だ。
部活にしてもそう、たとえば、野球の部活だったら、野球ばかりしていたってそれは大きくなったとき、青春の思い出とはなるが、これもまた、どこか空虚感が漂うに違いない。
なぜなら、「悪」を体験していないからだ。
僕の高校3年生のときの担任がおっしゃっていた。
「文化祭でも修学旅行でも、ましてや授業中でも、「悪」の部分が楽しいに決まっている」
って。
意味を解釈すると、文化祭でも修学旅行でも、その中で、みんなでビール飲んだり、普段は帰宅している時間でも遅くまで文化祭の用意をして、そのあと、肝試しするとか、こっそりと学校に出前をとって食事するとか、ちょっと違った事を体験したほうがそっちのほうがずっとか、後の思い出に残るということ。授業をサボったりとか、そんな思い出のほうがずっとか、楽しいに決まっている僕自身だってそうだ。
僕自身、文化祭の内容や修学旅行の内容、授業の黒板の板書なんかはとっくのとうに忘れた。
だけど、それ以上に上記の内容こそが、あの時はびくびくしながら「事」をやっていたけど、今となったら、最高の談話だ。
でもこういう「悪」の行為って、大人(社会人)にならないかぎり、わかってこないものだろうけどなぁ・・・。