心だけGAKIのまま

2004年からはてなダイアリーにお世話になっております。元は「永遠の少年から大人への階段」というタイトルで気ままに書いてきましたが、2019年春のはてなダイアリー終了に伴い、「はてなブログ」に移行しました。2018.11.15に移行完了。

JAL123

今年も夏がやってきた。季節は何も知らずめぐりめぐってくる。

今から20年前、群馬県御巣鷹山にお盆で満員の飛行機が墜落した。

僕の父は、今でも現役で空港関係で働いているのが影響してか、とってもよく覚えている時事である。

この1985年8月12日、僕は小学校3年生だった。家の前の道路で母と僕と弟で花火をしていた。その時、父が慌てた様子で、

「飛行機が落ちたぞ!」

っと青ざめた様子で僕たちに叫んだ。

あの時、僕と同級生だった子、先輩、後輩と生きていたら、いつどこかで友達になったり、もしかしたら、会社の先輩や後輩、もしかしたら学校の同級生になっていた子がいたかもしれない。

1985年9月1日の読売新聞の朝刊では、『かえらぬ日焼けの顔 悲しき新学期』というタイトルで幼き子供の写真が掲載されている。

その亡くなった子供たちのそれぞれの夢がサブタイトルとして掲載されている。

飛行機の整備士、プロ野球の選手、歌手、冒険家、研究者・・・とまさしく、『無残に夢断ち切られ』と書かれている。

僕は悲しくも許せない気持ちだ。この気持ちは20年たっても変わっていない。

幸いにも知っている人で亡くなった人はいないけれど、他人事とは思えないような85年の最大の悲壮な事故である。(この年、岡田有希子も自殺だった)

あの事故の飛行機の中、スチュワーデスはとっても冷静だったとある。
乗客もみんなで協力して、励ましあっていたという。
家族宛に手紙を書いていた人もいる。

あの時、携帯電話があったら・・・。


幼い命や尊い命など、かけがえのない夢を瞬時に奪ってしまったあの日を僕は忘れない。

追補

本日、TBS・FTVで『JAL123』のドキュメンタリーをやっていた。どちらも、涙涙だったかが、印象に残ったのが、「美谷島健」君。僕と同じ歳だ。その当時僕も小学校3年生。一人で飛行機なんてとってもすごい。しっかりしているなぁ〜と思った。でも、怖かっただろう。美谷島君のお母さんがインタビューで答えていたけれど、「あの時、ダッチロールが始まってから彼はどんな気持ちだったのだろう」と。お母さんが出発前、彼にオレンジジュースの入った水筒を持たせたとき「富士山が見えてから飲むのよ」といったあのセリフ泣けました。この後の展開がわかっているのにとめどなく溢れる涙。

今日は「イノチイトシム」、もっと周りの命を慈しむような、そういう人間になりたいと
改めて、考えさせられた。