心だけGAKIのまま

2004年からはてなダイアリーにお世話になっております。元は「永遠の少年から大人への階段」というタイトルで気ままに書いてきましたが、2019年春のはてなダイアリー終了に伴い、「はてなブログ」に移行しました。2018.11.15に移行完了。

暴力は正当防衛

ふと、思い出した。よく「暴力反対」と言うやつにかぎって、実は、争いが好きなやつが多いことを。

学生時代も、社会人時代もそういうやつばかりだった。多かったという表現は芳しくない。
すべてだという方が正解だとおもう。

そういう暴力反対と言うやつは、暴力と暴言を区別して考える。
かつ、暴言は、理屈で「相手のことをおもう」という逃げに回る。

学生時代、僕に負けそうになったやつが「暴力はよくない」と言っていた。
でも、その彼は、他人の喧嘩を見物するのが好きだった。なぜなら、ニタ付いていたから。かつ、敵を倒すゲームが好きだったから。また、下級生にはえらそうにし、威張っていた。

何年も前の社会人時代、若かった僕は、上司と喧嘩をしたことがある。その上司、偉そうに物事を言う。「馬鹿」「死ね」「幼稚園からやり直せ」などと精神病にかかってもおかしくないような発言をしていた。

僕はやめる時、そいつが会社の通用口に出てくるのを待っていた。僕は、「タイマンだ」といった。その上司、「えらそうになんだ!」と怒鳴った。僕は、胸倉をつかんだ。「負けたら土下座だ。」といった。彼は「暴力はよくない」といった。

僕は彼に「死ねとかいう言葉は暴力と同等じゃないのか」といった。

なんだかんだ言って、上司がひるみ、「謝るから、許して」といった。そこで、上司が2万円払おうとしたから「金の問題じゃない」と一喝した。

約束どおり、僕に土下座をし、靴をなめるという行為で許した。(実際は許していないが)
彼は泣いていた。よほど、悔しかったんだろう。

社会人は喧嘩はしない、暴力なんて論外となどほざいているやつは、本心で、そう思っているのか?

ただ、暴力がこないという想定だけで、言動していただけなのではないか?

世の中甘くない。形はどうあれ、弱肉強食の世界である。

暴力が本当によくなのなら、心底、平和主義に徹するべきだ。自らが躓いたら、逃げになるなんてただの中身のない弱いやつである。

女子でもそう、「てめー」「ぶっとばすぞ」など、言いたい放題いうやつがいる。で、暴力をしたらそれはよくない。という。
これもおかしい。

上記の逃げである。

本当に暴力がよくないとおもうのなら、心底おもうべきである。

それが慈悲であるし、愛でもある。

同じく学校の教師もそうだった。ヤンキーのやつにはやさしく諭し、まじめなやつには、これでもか!というくらいの怒号を。

心の平等化を求む。

つまり、今日、新青梅街道で警察沙汰になったからだ。人を見かけで判断するな。負けるとすぐ「警察だ」という。
情けない。情けない。情けない。

人間という動物だったら、自分より強い人間と弱い人間の臭いをかぎ分けるくらいの臭覚がないと、世の中生きていけないとつくづくおもう。

また、「口で言えないから、暴力で訴える」というやつがいる。そういうやつに限って、口で言っても、自らの主観のみで動き、絶対にこちらの言ったことを理解しない。つまり、事を抑えるには、自らの感情を爆発させること。これも大切だとおもう。じゃないと収拾が付かない。暴力も収拾がつかないが、そうでもしない限り、無理やりでも納得させることができない。

たとえば、二人が街中で喧嘩をしている。そのうちのひとりが刃物を出す。そうすると刃物を持っていない人はおとなしくなる。自らの命を守るために。かなり過激だが、刃物はよくない。

暴力は自らの信念を貫く、正義でもあるし、悪でもある。

両極性を持った、般若の面である。