心だけGAKIのまま

2004年からはてなダイアリーにお世話になっております。元は「永遠の少年から大人への階段」というタイトルで気ままに書いてきましたが、2019年春のはてなダイアリー終了に伴い、「はてなブログ」に移行しました。2018.11.15に移行完了。

許さんよ

記憶にある事件を探し出して見た。

ふと 思い出したのが「自殺」「ゲロ」「いじめ」である。

大学の新聞縮刷版で発見した。

1988年(昭和63年)12月12日の朝刊の記事。当時、実家は読売新聞を購読していたと思っていたから、読売新聞の縮刷版から探し出した。

当時、僕は小学6年生。来春には中学生になる年である。

僕より、1学年上。ということは今年、35歳になるはずだった。

なぜ、この記事が記憶にあるのかというと、6年生の僕は、ちょうど友達に「死ね」「ゲロ(ゲロ吐いたから)」などいじめをしていたから重複して記憶していたのだと思う。

でもその友達が死ななくてよかった。もし、死んでいたら今のような生活は送れていなかったと思う。

話は前後するけれど、その上記の自殺した女子は、もともと虚弱体質であり、小5の時にみんなの前で盛大な嘔吐をしたことから、「汚い」「気持ち悪い」などどののしられ、さらに、これまで仲のよかった友達にもいじめられ、四面楚歌になっていたのだという。

どんなにつらかっただろうか?いじめている本人たちには当時、その自覚がないに違いない。初めて事件が公になって、事の重大さに気づき始める。

「いじめ」というのは、元々、子どもの世界のみに存在するものだと学生時代は思っていた。だけど、社会に出てから、子どものいじめよりもさらにひどいものが存在することも知った。

かつてのクラス担任とプライベートで話したことがあるけど、教師の世界にもいじめはあるという。例えば、記憶している限りでは、重要な書類をシュレッダーに掛けたり、職員会議のプリントを廻さなかったりなどのことを目撃したという。

大人のいじめは子どもの時と違って、なかなか、上司に言いづらい。学生の時だったら「先生、何々君にいじめられた」などと簡単にちくることができるけど、大人でメソメソするのは恥に忍びない。

いじめを根絶するのはたやすいことではない。だけど、減らすことは十分に出来る。人に暴力を振ったら「暴行罪」として取り締まられる。いじめだって同じだ。いじめをべっ視してはいけない。同等以上として考えなければ。

都心部では、所定の場所以外でタバコを吸ったり、ポイ捨てをすると、条例違反となり、罰金になる。以前と比べて主観だけど、御茶ノ水駅や新宿・渋谷がきれいになったように思える。

また、飲酒も罰則強化したら以前よりは統計では確実に減っている。

じゃぁ、いじめだって厳罰化すれば、いじめという卑劣な行為が減少するのではないか。罰則の適用は小学生から適用。
だって、いじめで自殺をするのがいるから。小学生は厳重注意で終わってしまうと、「じゃぁ、いじめるのは小学校までで、中学になったらばれないようにやろう」などと少年法の悪用をするものも現れるのではないかと思う。

僕が大人になってわかったこと。いじめは最悪だ。気持ちが弱いものだって、どんな容姿であろうとまっとうに生きる権利があり、幸せになる権利はある。それを妨げる権利は誰にもない。

いじめは自己解決するのは大変、労力が要り、時間、精神をすり減らす。

それには大人がもっと真剣にならなくてはならない。大人が自己防衛を働き、利己主義になればなるほど、いじめ根絶は免れない。

今、いじめている奴は絶対に後悔する。その後悔は、自分の心が成長した時に始めてわかる。
今、いじめられている奴は、がんばれ・生きろ とか言っても、逆に苦しむと思う。じゃぁ、大人もわかってくれない、友達もいない、頼るものは誰もいない。だったら、もっと人間を好きになれといいたい。どうしても人間が嫌いな人物にしか見えないときには、自然を好きになること。僕がいじめられっこだったらそう、考える。

もし、いじめを克服しても、今後絶対に他人を虐めたりしてはいけない。同じことの繰り返しになるから。悪い歴史は自らの手で根絶する勇気をもってほしいと思う。

何か、過去の新聞を見て、ざんげの念だけが今でも心の片すみある。