さよならブランコ
12月18日、19年ぶりに「ブランコ」に行って来た。
ここは、僕にとって大変思い入れの深いところである。
中学3年の時に前項でザリガニを取りに行った友達と一緒につるんでいた思い出の場所である。
忘れもしない1991年11月23日の建国記念日である学校が休みの日にブランコを作った場所である。
それから年末年始を除いて、ほぼ毎日ここで話をしていた記憶がある。
あの時は、草が今ほどなく、簡単にここの場所まで行けた。
子供の数も少なくなり、こんな「ブランコ作り」なんて今の子供はしないのだろうか?
僕らは夕方、近くの寺から鐘の音が聞こえても、薄暗くなってもここにいた。
たわいもない話など、半分秘密ではない、秘密基地みたいな感覚はあっただろう。
当時好きだった、今でもたまに車で聴くが「リンドバーグ」の歌やKANの「愛は勝つ」や大事MANの歌が流行っていたころである。
この場所は中学卒業までいたおかげで、土がつるつるになり、草が生えてこなかったものだけど、あれから何年も経つと、写真のようになってしまうという時の流れの速さを思い知らされた。
ブランコの右横にあった「山椒の木」は僕らが切り取ったのか、枯れたのかは記憶にないが、無くなっていた。
ふと思い出したのが、たしかトイレも作った記憶がある。ベンチのすぐ後ろだと思うが。
この場所にいると色々な当時の記憶が蘇ってくる。
でもこの事は書かなくてはならない。
運命の分かれ道というべき出来事があった。
僕はH高校、彼はT高校という別々の高校を受験したのだが、僕は高校合格に自信がなく「もし、落ちたらここに来よう」と彼と約束した。なぜなら、滑り止めのための高校を受験していなかったからだ。お互いに。
結果、僕はH高校に受かり、彼はT高校を落ちて、彼はその後、別のT高校に入学したが中退してしまった。
高校に合格した僕は当然、その場所に行くことはなく、彼は山の中で30分くらい待っていたそうだ。でも、僕が来なかったから、帰ったそうだ。
そんなつらい出来事があった場所でもある。
そしてこの場所、竹がぼうぼうとあるのを除けば、正面にある木もあの当時のまま、そこにある。覚えている。
その下には小学校の頃、「どじょう」がいたけれど、今はそんな生き物すらいない、小さな小川。
付近の都市開発により、生態系が破壊された。
歳をとるにつれて、思い出ばかりが増えていく。楽しかったことが過去に流されるばかり。
でもたまに秋や冬になったら、たまにここに来ようと思う。(夏は蛇がいるから嫌だ。)
何か木々たちが答えてくれそうだから。
34歳になって、こんなところに思い出にふけりに行くのは僕くらいだろうか。
そんなのどうでもいい、やりたいことをやる。それが僕の生き方。
19年も経つと、「僕ら」の生き方も変わった。
彼に至っては知っているところでは、お父さんが亡くなり、お母さんが病気で入院したそうだ。
僕は今年、祖母が亡くなり、父は定年退職し、ブランコ作った当時、小学生だった弟(当時、話によると、そこに友達とブランコで1回だけ遊んだことがあるそうだ)が結婚し、環境も変わった。
僕も転換期に差し掛かったのかも知れない。
だけど、楽しかった当時を忘れることができない、金縛り状態にある。
帰りたい時にいつでも帰ることができる思い出の場所があるのは実はとっても幸せなことかもしれない。
その「帰りたい」という言葉を使うということは、それだけ、ブランコにした両サイドのクヌギの木と同じく、僕も歳をとり、同じようにしわが増えたということだ。
僕は、帰り際、そっと木に手を掛けて帰った。
ありがとう。本当にありがとう。素敵な空間を作ってくれて。